三浦綾子の道ありきを読み始める。これは彼女の自叙伝の3冊のうちの1冊目で、サブタイトルは青春編である。
彼女の作品は泥流地帯と氷点の二作を読んだが、彼女はクリスチャンのはずなのに、人間の醜い感情に詳し過ぎると感じた。
僕のキリスト教徒のイメージは学生の頃バイト先のホテルに居たエホバの証人である。彼は常に穏やかであり悪意や憎悪と無縁のひとだった。彼については忘れられない話がある。彼はバイト先を辞める日、菓子折りを持ってきたのだが、彼と馬が合わなかった総支配人はそれを清掃のおばちゃん達にくれてしまった。それを知った彼は休憩時間に飛び出して同じ菓子折りを買って来て「清掃の方たちを失念しており申し訳なかった。改めて買ってきたのでお世話になったフロントの方にも食べていただきたい」と言った。
彼に出会ってから僕はキリスト教を信じるひとはかくも穏やかな精神を手に入れられるのだと思い込んでいた。しかし、三浦小説の登場人物たちには彼のような素晴らしい精神を持つ人物も居るが、憎たらしい人物も多い。なので僕はキリスト信者の人の良さは、人の醜さと真摯に向かって考え抜くことで得られる悟りのようなものなのかと考えもした。しかし、自叙伝を読めば直ぐに解明されて、彼女は最初からクリスチャンだったわけではなく、元はヤリマンビッチだったのである。
自叙伝の中で本人も「自身の娼婦性は認める」と在る。しかし娼婦のような生活を送る前は小学校の先生だった。教師という職業がいかに素晴らしかったか、誇りを持って働いていたか、子どもたちをどれほど愛していたか、という経験は泥流地帯の耕作の立ちふるまいに見事に表れている。そして終戦によってもたらされた「自分がやってきたことは正しくなかったのか」という長い自責の経験が、氷点の陽子を自殺に追い込んだのだ。彼女は実体験を文章にするのがエッセイでも小説でもピカイチにうまいと思う。
道ありきは彼女の小説は彼女のあらゆる体験によって生み出されていたのだと理解できる興味深い自叙伝だった。まだ読み終わってないが。読み進めるたび、あの小説のこのシーンはこの体験がルーツなのだという発見が散らばっていて面白い。三浦綾子ファンに出会えたことが無いのだが、いつか出会って話がしたい。